著作翻訳家、エコロジスト、平和活動家。千葉県鴨川で、夫の森田玄と自給的農業を営むハーモニクスライフセンター主宰のきくちゆみさんにインタビューを行いました。

きくちゆみさん

きくちゆみさんのプロフィール

東京生まれ。著作翻訳家、エコロジスト、平和活動家。千葉県鴨川で、夫の森田玄と自給的農業を営む。

大学卒業後、マスコミ・金融界を経て、1990年より環境問題の解決をライフワークにする。911事件をきっかけに「グローバルピース・キャンペーン」を立ち上げ、米紙への意見広告やハリウッドのビルボードを実現。「戦争中毒」「9・11事件は謀略か」「9・11の矛盾」を翻訳、「テロリストは誰?」「911ボーイングを捜せ」「911の嘘をくずせ」の日本語版を制作。

平和省プロジェクト運営委員、東京平和映画祭 プロデューサー。

2010年9月11日より、恵比寿ガーデンプレスにて彼女が日本語版をプロデュースした映画「ZERO:9/11の虚構」が上映予定。

「『力』に依存しない 自給的暮らしを取り戻そう」
-その過程はきっとすごく楽しい!-

(聞き手/デジパ:桐谷、カメラマン/中村將一)

桐谷

平和運動家としての活動に至るきっかけについてきかせてください。

きくち

私はもともと平和運動ではなく、環境運動をやっていたんです。1990年に、私の好きなベリーズの森が破壊され、マングローブが根こそぎ採伐されていくのを目の当たりにして、熱帯林のことを調べ始めたんですが、熱帯材を一番輸入していたのは日本企業だということが分かって「なんだ木を切ってるのは自分だったのか」というところにいきあたって。そこから森を守るという環境保護活動をはじめました。自分のライフスタイルを見直し、不要品を売って、熱帯林を守るための資金作りをしました。

またそれと並行して海のクリーンアップ活動をしていましたので、2000年頃までの10年間ほど、森と海の保護活動を続けていました。

そんな中、91年の湾岸戦争の時に原油が海に流出するという映像が毎日のようにテレビで流れていましたが、あの時にハッとしました。海というのは7つの海すべてつながっていますから、一箇所汚すと国境を越えて汚れてしまいます。もちろん、空気もそうです。だから、戦争が一番の環境破壊だということに気がついたんです。

だけど自分が実際に反戦活動をするということは、当時の私にとってとても敷居が高く、具体的な活動も想像し難いものでした。

インタビューの様子写真

桐谷

鴨川に引っ越してこられたのはいつのことですか?

きくち

98年の4月です。ここでは田植えをして、野菜を育て、自然の恵みを食べることが究極的に環境を守ることにつながるということを実感して、この暮らしを広げることが私のライフワークだと感じていました。

ところが、2001年にあの911事件が起こった。湾岸戦争の時のことを思い出しました。これからテロの度に戦争で対抗するなんてキリがないです。

戦争で一番大きな被害を受けるのは、戦場にされた国の子どもです。911事件直後は自分が子どもを産んだすぐ後だったこともあり、この子たちを守るには「戦争を止めるっきゃない」って思ったんですね。子どもを産んだばかりの女は、産んだ子に対して「誰にも傷つけさせない」「この子のためなら何でもやる」という心境なんですね、きっと。ロジカルな思考ではなく、とにかく子どもを守るために本能的に動くというか。自分の子どもを守れるのは自分だという勢いで、アフガニスタンの子どもたちやイラクの子どもたちが殺されるのはどうしてもいやだ、戦争を止めなければいけない、テロの報復として戦争するのは間違っていると強く思い、その時に立ち上げたのが「グローバルピース・キャンペーン」です。

桐谷

私が初めてゆみさんの活動を知ったのもその頃でした。

きくち

そうでしたか。当時の勢いは相当だったと思うので(笑)、周りからもいろいろ言われはしましたが、とにかく戦争が始まる前になんとか世論を、特にアメリカの世論を変えて、戦争を止めるためにできることは全てやるという感じで走り出していました。気づいたらあっという間に「グローバルピース・キャンペーン」を始めていましたね。テロに戦争で対抗しても、解決するどころか更にテロを生むだけだというのが当時の私の主張です。それから現在も主張は変わっていませんが、911事件についてより詳しくなってからは、そう単純ではないこともわかってきました。

あれだけ国境を越えた大きな反戦活動があがったのに、結局戦争は止まらなかったし、今もなおつづいています。アメリカの指定する「テロ国家」には、アフガニスタンやイラク以外でも、イラン、シリアなど反米的な国家が数多く挙がっていて、終わりが見えていません。

桐谷

具体的にはどのような活動をされてきたのでしょう。

きくち

いくつか紹介しますと、まずはニューヨークタイムズやワシントンポストやロサンゼルスタイムズなど米国の主要紙に反戦・平和の意見広告を出しました。それから、『戦争中毒』という本の出版をアメリカで支援し、ハリウッドに『戦争中毒』のビルボード(看板広告)を出し、それから日本語訳をしました。この本は日米でベストセラーになっています。

これはもともとアメリカ人の「平和のための退役軍人会」の方が出版しようとしておられた本で、私達「グローバルピース・キャンペーン」が支援して、最初にアメリカで出版しました。『戦争中毒』を読むと、戦争というのは勃発するのではなくちゃんと仕掛人のような存在がいて、その存在が仕掛けることでウォールストリートの投資家、銀行家、様々な企業が自分たちの売上を伸ばすためにやっているものだということが書いてあります。資源争いも利益のためですよね。イラクだったら石油、アフガニスタンなら天然ガス、とね。

それから『テロリストは誰?』というドッキュメンタリー映画集の翻訳をしました。この作品の中では私も知らない、アメリカ人すら知らないことが描かれていました。アメリカという国は、第二次大戦以降、つぎつぎと第三世界の国々、例えばパナマなどの国を攻撃し続けています。パナマへの空爆はノリエガ大統領を捕まえるという理由で日本でもニュースになりましたが、当時空爆で首都のパナマシティーが焼け野原になり、何千人という被害者を出しています。報道されないために誰も知らないようなことが、この映画では多く取り上げられています。

私自身映画を見て本当にびっくりしました。こうやって他所の国に爆弾を落として多くの人が犠牲になっていても、報道されなければ私たちは、それがあったことすら知らないで済んでしまうのだ、ということに初めて気づいたんです。

桐谷

「平和省プロジェクト」についてお聞きしたいのですが。

きくち

911事件当時のアメリカは、多くの人が戦争賛成だったんです。世論調査がどの程度正確かという問題もありますが、私が見た一番大きな数字だと90%、少なくとも70%くらいのアメリカ人が報復のための戦争を支持していました。

「グローバルピース・キャンペーン」の活動で私が一番やりたかったことは、そのアメリカの世論を変えることでした。まずひとつ、私は市民ですから、アメリカ市民にはたらきかけて市民の意識を変えていくということがすぐにできることで、意見広告をしたのです。そしてもう一つは、アメリカの政治に影響を与えたい。アメリカの議員で戦争反対の人がいないか、探していました。

911事件後の2002年初頭、ブッシュ大統領は一般教書演説で、「イラクが大量破壊兵器を隠し持っているので攻撃をしなくてはならない」と言っていました。演説後は上下両院の議員はみな立ち上がって拍手喝采、スタンディングオベーションです。唖然としました。むなしくも、テレビに向かって「大量破壊兵器一番持っているのはアメリカじゃない。自分の国の核兵器は何なのよ」とつぶやきました。

そんな中、インターネットで戦争不支持の政治家を探していたら、オハイオ州の下院議員デニス・クシニッチさんの演説を見つけたんです。その演説はブッシュ大統領の一般教書演説とは対照的に、「まず我が国の大量破壊兵器からなくそう」と言っていたんです。鳥肌がたちましたね。言い方は違いますが、ちょうど私がテレビに向かってつぶやいたことと同じことを彼は米国議会議事堂で発言していたのです。それから彼の動きをウォッチしはじめて、私はデニス氏のフォロワーになりました。

桐谷

その後コンタクトはあったのですか?

きくち

はい。しばらくしてデニス氏が大統領選に出馬するという連絡が入りました。

その頃の私は、活動の甲斐なくイラク戦争が始まってしまって、活動のペースがとてもスローになっていました。所詮、どんなに市民ががんばっても、権力者を止め、戦争を止めることなんてできないと意気消沈していたのです。ですので、大統領選出馬の知らせがあってからは"デニス氏を大統領にしよう!"と、私の中で活動の方向を転換し、また活動を再開しました。私はすぐに大統領選のキャンペーンを始めたばかりのデニス氏に会いに、カリフォルニアに飛びました。当時は今ほど有名ではなかったので、会うことができたんです。

結論から言えば彼は本選に入る前の予備選で破れてしまったのですが、彼のやろうとしていることの一つ大きな柱に「平和省の創設」があったんです。そもそも「平和省」というのは、あらゆる争いごとを非暴力で解決するためにベストを尽くす、非暴力に徹した国家機関です。武力を使わずに、あくまでも交渉、仲裁あるいはトランセンド(超越)を目指します。デニス氏のマニフェストにあった「平和省」の理念はすばらしいものでした。

桐谷

"トランセンド"とはなんですか?

きくち

意味としては「越える」ということです。ヨハン・ガルトゥングという人が提唱した考えで、例えばAとBという二者間において争いが起こったときに、その解決策は「A+B÷2」ではなく「C」というまったく別の、AやBを越えたところにあるという考え方です。

ヨハン・ガルトゥングという人はノルウェー人ですが、ノルウェーには「平和省」はありません。しかし、長年紛争が続いているイスラエルとパレスチナとの間に立って仲裁外交などをするなど、すでに平和省の目指すようなことを早くから実践している国です。

それから、例えばピース・プリゲード(非暴力平和隊)とか国際連帯運動(ISM)といったGOがありますが、彼らは紛争地域に入っていってただ監視やアテンドをするんです。そこにでも外国人の目やカメラがあるというだけで、残虐な行為や暗殺などが防げたりするんです。その他にも非暴力・平和的手段で紛争を解決しようと活動する数多くの団体がありますが、それは政府ではなく民間のGOがやっています。それら団体が政府直結の「平和省」としてまとまって活動することができたならば、今よりもう少し、紛争が武力抗争になる前に解決できる道が探れると考えています。

デニス氏大統領選の後、「平和省」を本当にアメリカにつくろうじゃないか、と選挙運動をしていた人たちが「ピースアライアンス」というグループを立ち上げました。私も当初のピースアライアンスの活動に参加していましたが、この「平和省」は日本にこそあったほうがいいと考えるようになりました。

日本では駐在する米軍の問題や自衛隊の戦地への派遣など、憲法9条や非核三原則が年々形骸化しています。憲法で戦争を放棄しているのですから、日本こそ平和省をつくってどんどん外国に出ていって、非武装で調停外交含めトランセンドや非暴力コミュニケーションを駆使して紛争が武力抗争になる前に争いごとを収めることができたらどんなに素晴らしいか、と思っています。日本をそういうことができる国にしたいですよね。

桐谷

それが「平和省プロジェクト JUMP」の設立につながったのですか?

きくち

はい。デニス氏の大統領選に参加していたときに、『デニス・クシニッチ アメリカに平和の大統領を』という本を書いたのですが、その本において"日本に「平和省」を設立したいので賛同する人は私にコンタクトをください"と添えたところ、多くの方から連絡がありました。それからミーティングを重ねて、日本に「平和省プロジェクト JUMP」というグループができたのです。

現在はそこまで大きな動きになっているわけではないのですが、日本のあちこちに「平和省」ができたらいいなと思っている仲間たちが増えていっているという状況です。

インタビューの様子写真

桐谷

2008年に民主党の藤田議員が国会で911事件の真相について質問と再調査の要望をしましたね。

世界中の指導者や専門分野の知識人、アメリカ政府、議会、軍の関係者などが、9・11の再検証を求めている中で、日本も無知ではいられないし、日本人からも犠牲者が生まれているということで福田内閣の時にいくつかの具体的物証や証言のある材料を選んで質問しました。

ハイジャックされたボーイング757型大型旅客機が突っ込んだペンタゴンにできた穴が、主翼の幅38mよりずっと狭い。最も強固な三層の壁を貫通した5mの穴もある。アルミ製の機体が分厚いコンクリートの壁を貫通するのは不可能。建物前の芝生に機体の残骸はほとんどない。

飛行機が突入していない世界貿易センター第7ビルが、小規模な火災という理由で崩壊した。しかも、真空状態で物体が降下するようなハイスピード(6.5秒)で。ビル全体が原型を留めたまま、対称性を維持しながら、せり舞台をストーンと落下するように。

これらの疑問より再調査するべきだと。でも、実際にはほとんど報道されませんでしたが...

きくち

そうですね。あれは、タブーなんですよ。

彼はNHKの国会中継があるときを選んで質問したのです。録画だったら放送されないと分かっていたのでしょうね。その後、質問の内容については一切報道されませんでした。しかし実際に、藤田氏は自ら911事件についてお調べになって、的確な質問をしました。彼の質問は後世に残る勇気ある行為だったと思います。

今後もこの問題を藤田議員が取り組めるかどうかは、私達が彼をどれだけ支持できるかにかかっていますよね。国会議員は選ばれて初めて仕事ができるわけですから。

桐谷

そうですね。でも最近は、911のアメリカ政府の発表がおかしいと思っている人は確実に増えていますよ。経営者同士で食事をしていてもそのような話題が出るようになりました。あの事件をきっかけに、アフガニスタン戦争、イラク戦争が起こり、世界が様変わりしたのですから。

きくち

そのような感想をいただけると、やってきてよかったという気持ちになります。 私は2004年から911事件の真相について発信し続けていますが、おかげさまで、だんだんと再調査が必要だ、という意識が高まりつつあります。911はおかしい、と。

私がこの活動に関わるきっかけになった「911ボーイングを捜せ」というドキュメンタリー映画がありますが、これを初めて見たときは、ものすごい衝撃を受けました。当時イラクに自衛隊を派遣する・しないという国会論戦の最中でしたから、この映画の内容が真実であるとしたら、日本の国会議員がそれを知らないというのは大変なことだと思い、知人の喜納昌吉さんという参議院議員にお願いして議員会館内で議員向けの上映会をすることにしたんです。

桐谷

議員の参加はあったのですか?

きくち

そのときは結局、喜納昌吉さんだけでした。秘書の参加は何名かありました。でも、上映会開催の告知をしていたためメディアは大勢集まったんです。市民も100人くらい集まりました。上映終了後には多数のテレビ局や新聞、報道機関からインタビューを受けました。しかし、その後報道には出ませんでした。

私は環境活動家としての経歴も長いですが、以前原発の危険性について発言をしたときにも同じようなことがありました。インタビューを受けても新聞には一行も出ない。それと同じだなという実感がありました。

議員会館での映画上映会後には、特集番組を組むと言ってこの自宅にもカメラが入り、長時間インタビューを受けましたが、それも放送されることはありませんでした。 テレビ局で働く彼らを責めるつもりはありません。彼らも仕事ですから、スポンサーの意向に注意を払わないでは広告費がいただけないですからね。ただ、情熱をもって番組をつくるんだと言って若いディレクターが信念を持ってやっていても、企画として一切通らないということは、911事件の一連のことは日本の原発に問題提起することと同じくらい大きな問題なのだと分かりました。それが2004年のことです。

そこからは私の草の根的な活動が始まるわけです。メディアで取り上げられないのなら自分で広めよう、と「東京平和映画祭」を立ち上げ、上映会を企画したり、DVDを製作したりという活動を今日までやってきました。

桐谷

911事件の真相や原発の安全面の問題疑惑に関して、大手メディアは伝えることがほとんどできない。例えば原発に関しては、電力会社が大手メディアのスポンサーであるという関係性があるのでディレクターが報道しようとしてもストップがかかる。だから、ゆみさん達のような市民運動している人が必要だと私は考えています。「東京平和映画祭」は、もっと多くの人に参加してほしいと思いますし私も今後とも応援しますよ。

きくち

ありがとうございます。

桐谷

なぜ日本はこういう動きが広まっていかないのでしょうか。

きくち

やはり真実を知ったからといって、メリットがあったり希望を持てたりするわけではないと考えているのでしょうね。例えばビジネスのカンファレンスなどには情熱をもって集まる20代30代の若者も、こと平和や環境ということになると、しらけちゃう。自分の問題と思っていないのかもしれませんね。まあ、私も若いときはそうでしたよ。関心なかったから。あと、伝えるこちら側の問題もあると思います。難しい、コワイ、取っ付きにくい、というイメージありますよね。実際に多くの人にとって、私たちの提起する問題が魅力的に映っていない。

あとは、現実感がないということだと思います。日本は戦争にはならない、たとえ戦争になったとしても日本は戦場にはならない。これはアメリカ人も同じですね、現在「対テロ戦争」をしているんだれけども、爆弾が頭の上に落ちてくるわけではない、と思っているのです。でもね、いつまでも対岸の火事ではないですよね。戦争すれば環境は確実に汚れます。劣化ウラン弾の酸化ウランの微粒子は日本に来ていますから。

桐谷

ゆみさんの今後について最後に聞かせてください。

きくち

第三世界の人たちが現在戦争や国際紛争や環境破壊によって被害に遭っています。これは、地域で賄っていた自給的な経済のしくみを壊してしまったからだと思っています。

日本なら里山文化のようなものですね。「ご馳走」というのは、走って駆けてとってきたもののことを言うんですよ。10里、40kmを走って集めたものが日本の食文化だった。地域で必要なものは40kmで賄えていたんですよ。それがグローバル化が進むにつれ、地域のコミュニティの絆、自然との関係、自給自足的な暮らしや生活や文化を壊したり、手放したりしてきた。

地域で自給経済が壊れると、力と金を持った強い立場の人のいいなりです。石油がなきゃいけない、何がなきゃいけないと、強い力に依存する他ない。それがまさに今の日本ではないですか。だから政治家はどんなに偉そうなことを言えても、アメリカには頭があがらない。石油がなくなったら農業も止まるんですから。

ですから、私がここでやろうとしていることは、桐谷さんがやろうとしていることでもありますが、自ら自給的な暮らしをして仲間を増やしていく、ということですね。自分で食べるものは自分で作る。稲を植え、野菜を作る。それをしながら、また一方では平和のための活動や健康自立のための医療の自給(予防医学)もやっていきたいです。そういうことを今後も楽しみながら、やっていきます。仲間もどんどん増えていますよ。

桐谷

40kmの食文化というのをもう一度取り戻すことは、日本を元気にするキーではないかと思います。私も、仲間と田んぼ畑を始めました。

きくち

そうですね。「ご馳走の文化」ね(笑)。おいしいものをみんなで汗かいて作って食べるって、すっごく楽しいですよ。確かにこういう暮らしはお金とは無縁で、収入にはつながりにくいです。けれどそれを上回るほどの人との関係や、何かあったときに助け合える絆が、ここにあります。もともと日本にあったそういうものを、いま私達は取り戻そうとしているわけです。その過程というのは、非常に楽しいだろうなと思い、ワクワクしますね。

桐谷

今日はお忙しい中ありがとうございました。いつまでも、ゆみさんを応援していますし、私も知ったからには真実を伝える人でありたいと思います。

きくち

ありがとうございます。恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館で9月11日からやる「ZERO」も観にきて下さいね!

※インタビューに掲載されている企業・団体様の活動と弊社は一切関わりがございません。

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