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新しい日本の創造

カテゴリ:時流      2011年6月22日

震災から3ヶ月以上が過ぎ、東京の町を歩くと止まっていたエスカレーターが動き始め、消えていたビルのエントランス照明が付き始めたりしている
何か「喉元すぎれば暑さを忘れる」そんな空気を感じるのは私だけだろうか?

1990年代から約20年間、日本は国が進む方向性を見失ったままの状態である
1980年代に日本は、豊かな食と商品がが豊富で多種多様の選択が可能な世界一豊かな国になった
しかしその後、先進国でありながら3万人の自殺者を生み出すという現象を引き起こした
いくら物があっても、便利であっても、GDPが上がっても幸せにはなれない
幸福感を感じることはできないということが実証されたのである
そろそろ、この震災をきっかけにそれを共有する時期に来ているのではないだろうか
3年前までベトナムに子会社があったので私は毎月、ホーチミンに出張に出向いていた
ベトナム出張でいつも驚かされたのは、ベトナム人のエネルギーである
子供も若者もエネルギーがみなぎっていて、「生きている」ということを感じさせてくれる
日本に比べて物はなく、1台のバイクに家族が3人乗りしていたり、就職をして一番買いたいものが携帯電話であったりする
ベトナムから成田に帰ってきていつも感じるのは、日本人の「生きる」というエネルギーの希薄さであった
震災後、しばらく東京で電車による人身事故が起きなかった
それまで、多い日は1日に2度経験したことがある
おそらく今回の震災は人々の死生観に影響を与えたのであろう

今後、時間をかけて日本は復興するだろう
でも、元の生活に戻すことが本当にいいことなのだろうかという疑問が私にはある

安政の時代にも大津波を東北を襲ったが、その時に津波が来た場所に石碑を建て「これより下には住まない」と取り決めを行い、先祖代々それを申し送りした集落があるのだが
その集落は今回の災害を免れることができた
先日、石巻の相川避難所に行ったのだが、わずか20メートルの差で全壊した家と無傷の家とに分かれているのを目の辺りにした
無傷の家は高台に建っていた
日本は便利さと効率を追求して街づくりをしてきたが、被災地の都市計画に関しては海岸沿いの平地は農業、林業地域にして集落は津波が来た場所より高台に再生したらどうだろうか

1960年代の日本のエネルギー使用量は現在の3分の1だそうだ
私は1960年代の生まれだが、当時と今とを比べてみると必要な物は既にあった
今日、昼間に東京の山手線に乗ってこれほどの本数の電車を走らせる必要があるのかと疑問に思った
まず前提として、本当に全員が同じ時間にオフィスに毎日出社して仕事をする必要があるのだろうか
これだけインターネットインフラが整った昨今、自宅勤務を徹底的に推奨したらどうだろうか
そうすれば、産業エネルギー量も減らせるし通勤という人々の負担も減る
日本人の豊かさ指数は上がるのではなかろうか

今回の原子力政策に関しては「官」「民」「学」の癒着が浮き彫りになったが、必要なときに必要なことが起きるので今回の震災は大きな痛みを伴ったが、日本が新しい国に蘇生するチャンスである
再生エネルギーへの国策転換、各家庭で電気蓄電ができる電池の開発及び徹底した省エネ家電の開発、輸入に頼るのではなく食料に関しては自給文化の創造、
中央集権から地域の独立化及び地域通貨の普及等、今だからこそできることがある
震災が起きなくとも、日本は行き場を失っていたのだから
大病になった今こそ生き方を変えるチャンスである

少しくらい不便でも、持続可能で安心して生きられる社会、新しい日本の創造に向かっている

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桐谷晃司

1964年生まれ。スタートアップスクエア(株)、デジパ(株)代表取締役社長。世界30ヶ国を放浪した、自称スピリチュアルビジネスマン。

現在は南房総の千倉町で半農半Xな暮らしを目指しながら、循環型のエコビレッジ「あわ地球村」を創設中。

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